ドストエフスキー『悪霊』を読んで

一、ドストエフスキーの『悪霊』と現代史
 カンボジアでは、ポルポト政権による独裁政治から30余年を経て、今やっと政権幹部たちに対する裁判が始まりました。ポルポト政権は1975年から1979年まで政権を握り、「大粛清国民運動」と称して教師などエリート層を中心に170万人を超える人々を大量虐殺しました。私が驚いたのは、その恐怖政治の有様が、『悪霊』のなかでピョートル・ヴェルホヴェンスキーに語らせた政治思想と非常に似ていたことです。ピョートルは、高度な能力を持つ人、あらゆる天才は抹殺されるべきだと述べているのです。その目的は、まず混乱時代をもたらすこと、そして専制君主的な社会主義国家を樹立することのようです。ピョートルは次のように述べます。

 「社会の全成員がおたがいを監視して、密告の義務を負うわけです。…(略)…全員が奴隷であるという点で平等です。極端な場合には中傷や殺人もあるが、何より大事なのは−平等です。まず手はじめとして教育、学術、才能の水準が引きさげられる。学術や才能の高い水準に達するには高度の能力が必要ですが、そんな高度な能力など必要ない!高度の能力をもった者はつねに権力をにぎり、専制君主でした。高度の能力をもったものは専制君主たらざるをえないし、これまでつねに利益よりは害毒を流してきたんです。彼らは追放されるか、処刑されます。…(略)…奴隷は平等でなけりゃいけない。専制主義なしにはこれまで自由も平等もあったためしがないが、ただし家畜の群れの中は平等でなけりゃいけない…(略)。」(『悪霊』新潮文庫版、下巻:149ページ)

 「教育なんていらないし、科学もたくさんだ!科学なんぞなくたって、千年くらいは物質に不足しませんからね、それより服従を組織しなくちゃ。この世界に不足しているのはただ一つ−服従のみですよ。教育熱なんぞはもう貴族的な欲望です。家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを一つの分母で通分する−つまり、完全な平等です。」(『悪霊』新潮文庫版、下巻:150ページ)

 人々を自分たちの奴隷と見なし、奴隷の絶対的な平等を目指す。そのために突出した人々を抹殺するなんて…ピョートルはなんてひどいことを言う人だろうと私は戦慄を覚えました。しかし、実際にポルポト政権が30年前にこのような恐怖政治を行ったことを知った時、驚きと憤りを禁じ得ませんでした。

二、『悪霊』にみる希望

 「そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。牧者ども、起こりしことを見るや、逃げ行きて町にも村にも告げたり。人びと、起こりしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これを彼らに告げたり。」(ルカによる福音書第8章32節〜36節)

 『悪霊』の冒頭にはルカによる福音書(8章32節〜36節)が登場します。人に取り憑いた悪霊が豚の群れに乗り移りその豚の群れが湖で溺れ死ぬ一方、悪霊から解放された人たちはイエスのもとに集い平安を得るという場面です。
 そして同じ個所が『悪霊』の最後の方に再び登場します。主人公の一人、もと大学教授のステパン・ヴェルホヴェンスキー(ピョートルの父親)が、病床の枕元でその個所を福音売りの女性に読んで貰うのです。その場面でのステパン氏のセリフが、この小説でドストエフスキーが言いたかったことの一つだと思います。

 「イイデスカ、このすばらしい…異常な個所はぼくにとって生涯のつまずきの石だったのです…コノホンノナカデ…それでこの個所は子供の時分からぼくの記憶に焼きつけられていました。ところがいま、僕には一つのアイデアが、アル・ヒカクがうかんだのです。いま、ぼくの頭には恐ろしくいろんな考えがうかんでくるのですがね。どうです、これはわがロシアそのままじゃありませんか。病人から出て豚に入った悪霊ども−これは、何百年、何世紀もの間に、わが偉大な、愛すべき病人、つまりわがロシアに積もりたまったあらゆる疾病、あらゆる病毒、あらゆる不浄、あらゆる悪霊、小鬼どもです!ソウ、コレコソ・ボクガ・ツネニアイシタ・ろしあデス。しかし偉大な思想と偉大な意志は、かの悪霊に憑かれて狂った男と同様、わがロシアをも覆い包むことでしょう。 するとそれらの悪霊や、不浄や、上つらの膿みただれた汚らわしいものは…自分から豚の中に入れてくれと懇願するようになるのです。いや、もう入ってしまったのかもしれません!それがわれわれです、われわれと、あの連中と、それからペトルーシャです…ソレト・カレノ・ドウルイタチ。そしてぼくは、ひょっとしたら、その先頭を行く親玉かもしれない。そしてぼくらは、気が狂い、悪霊に憑かれて、崖から海へ飛びこみ、みんな溺れ死んでしまうのです。それがぼくらの行くべき道なんですよ。なぜって、ぼくらのできることといえば、せいぜいそれくらいだから。けれど病人は癒えて《イエスの足もとにすわる》…そしてみなが驚いて彼を見つめるのです…」(ドストエフスキー『悪霊』新潮文庫版 下巻:598〜599)

 聖書の話にたとえるならば、無神論的な無政府主義(あるいは社会主義)に取り憑かれたピョートルたち五人組、その陰の頭領といえるスタヴローギン、さらに彼らの「親玉」だったかもしれないステパン氏たちが破滅し、ロシアに平安が訪れるという話になります。しかし、小説では実際にロシアに平安が訪れるかどうかは全く明らかにされていません。私たち読者が心のなかで平安を祈るしかありません。
 この小説では、大勢の人が死に、最後はスタヴローギンが自殺する場面で終わります。私は、この小説を読みながら、人間はなんて勝手でひどいんだろうとつくづく思いました。それでも、私が読後に何かしら希望を抱くのは、この聖書の個所が引き合いに出されているからかもしれません。人々の心の平安、そして世界平和を願わずにはいられません。