佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』に感動しました。

佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』(2003)筑摩書房を読み、感動しました!この本は、『100万回生きたねこ』で有名な絵本作家、佐野洋子さんの珠玉のエッセー集です。この作品には、群馬県浅間山麓での実生活や自分の過去が赤裸々に綴られ、含蓄のある言葉がそこかしこに記されています。おもなテーマは、若さと老い、死、自然、生きる意味です。痛快で、しかも心がじんわり温まります。「小林秀雄賞」(2004年)受賞作品です。
 老いや死は、容赦なく身近に迫ってきます。執筆当時、著者は痴呆症の高齢の母親を老人ホームに預けていたそうです。いったい、どのように老い、死ねばよいのでしょう。生きる意味とは?これら永遠の問いに対する答えのヒントが、この作品にちりばめられています。男女を問わずお勧めします。ゆっくり味わいながらお読み下さい。

『ノルウェイの森』を読んで

 先日、「中国の学生には『ノルウェイの森』人気 村上作品に共感」(2009/03/12、朝日新聞)という記事を目にしました。中国の都市部の大学生の半数以上が村上作品を読んでおり、なかでも『ノルウェイの森』が人気があるそうです。わたし自身は村上作品を読んだことがなかったのですが、この記事を見て『ノルウェイの森』を読んでみようと思いました。ドストエフスキー好きのわたしにとって、村上春樹自身が好きな本3冊のうちの1冊に『カラマーゾフの兄弟』を挙げていることも、この作品を読もうと思うきっかけとなりました。
 これは、1960年代末の大学紛争時代の東京の(エリート、おそらく)大学の学生の恋愛物語で、そのなかに、大学生の日常生活(寮生活、大学の講義など)、身近に起こった死(自殺)とそれに飲み込まれてしまった主人公の憂鬱、などが織り込まれています。
 わたしは、大学紛争に対する批判、とりわけ紛争に参加する男性の女性支配に対する批判には、大いに共感できました。でも、性欲やセックスについては、受け入れられませんでした。この小説は男性の目線から書かれているなあとつくづく思います。例えば、性欲処理のために男性が見知らぬ女性とセックスすることを(ある意味で)主人公は正当化しているのですが、それはいかがなものかと思います。それに、小説では省いているだけだと思いますが、男性側がしっかりと避妊しているのかも心配になります。それから、友人とのセックスについても疑問に感じます。わたしが古臭いのかもしれませんけれど、パートナーとして大事にしようという覚悟もないのに、セックスすることは許されないと思います。単なるスキンシップとして、友人との親交を深めるためにセックスするということは、あり得ないと思います。もっと違う小説の読み方があると思いますが、今回、わたしはこんな感想を持ちました。

ドストエフスキー『悪霊』を読んで

一、ドストエフスキーの『悪霊』と現代史
 カンボジアでは、ポルポト政権による独裁政治から30余年を経て、今やっと政権幹部たちに対する裁判が始まりました。ポルポト政権は1975年から1979年まで政権を握り、「大粛清国民運動」と称して教師などエリート層を中心に170万人を超える人々を大量虐殺しました。私が驚いたのは、その恐怖政治の有様が、『悪霊』のなかでピョートル・ヴェルホヴェンスキーに語らせた政治思想と非常に似ていたことです。ピョートルは、高度な能力を持つ人、あらゆる天才は抹殺されるべきだと述べているのです。その目的は、まず混乱時代をもたらすこと、そして専制君主的な社会主義国家を樹立することのようです。ピョートルは次のように述べます。

 「社会の全成員がおたがいを監視して、密告の義務を負うわけです。…(略)…全員が奴隷であるという点で平等です。極端な場合には中傷や殺人もあるが、何より大事なのは−平等です。まず手はじめとして教育、学術、才能の水準が引きさげられる。学術や才能の高い水準に達するには高度の能力が必要ですが、そんな高度な能力など必要ない!高度の能力をもった者はつねに権力をにぎり、専制君主でした。高度の能力をもったものは専制君主たらざるをえないし、これまでつねに利益よりは害毒を流してきたんです。彼らは追放されるか、処刑されます。…(略)…奴隷は平等でなけりゃいけない。専制主義なしにはこれまで自由も平等もあったためしがないが、ただし家畜の群れの中は平等でなけりゃいけない…(略)。」(『悪霊』新潮文庫版、下巻:149ページ)

 「教育なんていらないし、科学もたくさんだ!科学なんぞなくたって、千年くらいは物質に不足しませんからね、それより服従を組織しなくちゃ。この世界に不足しているのはただ一つ−服従のみですよ。教育熱なんぞはもう貴族的な欲望です。家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを一つの分母で通分する−つまり、完全な平等です。」(『悪霊』新潮文庫版、下巻:150ページ)

 人々を自分たちの奴隷と見なし、奴隷の絶対的な平等を目指す。そのために突出した人々を抹殺するなんて…ピョートルはなんてひどいことを言う人だろうと私は戦慄を覚えました。しかし、実際にポルポト政権が30年前にこのような恐怖政治を行ったことを知った時、驚きと憤りを禁じ得ませんでした。

二、『悪霊』にみる希望

 「そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。牧者ども、起こりしことを見るや、逃げ行きて町にも村にも告げたり。人びと、起こりしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これを彼らに告げたり。」(ルカによる福音書第8章32節〜36節)

 『悪霊』の冒頭にはルカによる福音書(8章32節〜36節)が登場します。人に取り憑いた悪霊が豚の群れに乗り移りその豚の群れが湖で溺れ死ぬ一方、悪霊から解放された人たちはイエスのもとに集い平安を得るという場面です。
 そして同じ個所が『悪霊』の最後の方に再び登場します。主人公の一人、もと大学教授のステパン・ヴェルホヴェンスキー(ピョートルの父親)が、病床の枕元でその個所を福音売りの女性に読んで貰うのです。その場面でのステパン氏のセリフが、この小説でドストエフスキーが言いたかったことの一つだと思います。

 「イイデスカ、このすばらしい…異常な個所はぼくにとって生涯のつまずきの石だったのです…コノホンノナカデ…それでこの個所は子供の時分からぼくの記憶に焼きつけられていました。ところがいま、僕には一つのアイデアが、アル・ヒカクがうかんだのです。いま、ぼくの頭には恐ろしくいろんな考えがうかんでくるのですがね。どうです、これはわがロシアそのままじゃありませんか。病人から出て豚に入った悪霊ども−これは、何百年、何世紀もの間に、わが偉大な、愛すべき病人、つまりわがロシアに積もりたまったあらゆる疾病、あらゆる病毒、あらゆる不浄、あらゆる悪霊、小鬼どもです!ソウ、コレコソ・ボクガ・ツネニアイシタ・ろしあデス。しかし偉大な思想と偉大な意志は、かの悪霊に憑かれて狂った男と同様、わがロシアをも覆い包むことでしょう。 するとそれらの悪霊や、不浄や、上つらの膿みただれた汚らわしいものは…自分から豚の中に入れてくれと懇願するようになるのです。いや、もう入ってしまったのかもしれません!それがわれわれです、われわれと、あの連中と、それからペトルーシャです…ソレト・カレノ・ドウルイタチ。そしてぼくは、ひょっとしたら、その先頭を行く親玉かもしれない。そしてぼくらは、気が狂い、悪霊に憑かれて、崖から海へ飛びこみ、みんな溺れ死んでしまうのです。それがぼくらの行くべき道なんですよ。なぜって、ぼくらのできることといえば、せいぜいそれくらいだから。けれど病人は癒えて《イエスの足もとにすわる》…そしてみなが驚いて彼を見つめるのです…」(ドストエフスキー『悪霊』新潮文庫版 下巻:598〜599)

 聖書の話にたとえるならば、無神論的な無政府主義(あるいは社会主義)に取り憑かれたピョートルたち五人組、その陰の頭領といえるスタヴローギン、さらに彼らの「親玉」だったかもしれないステパン氏たちが破滅し、ロシアに平安が訪れるという話になります。しかし、小説では実際にロシアに平安が訪れるかどうかは全く明らかにされていません。私たち読者が心のなかで平安を祈るしかありません。
 この小説では、大勢の人が死に、最後はスタヴローギンが自殺する場面で終わります。私は、この小説を読みながら、人間はなんて勝手でひどいんだろうとつくづく思いました。それでも、私が読後に何かしら希望を抱くのは、この聖書の個所が引き合いに出されているからかもしれません。人々の心の平安、そして世界平和を願わずにはいられません。

「熊谷守一展」に行きました。

先月、3月23日、埼玉県立近代美術館で開催されていた「熊谷守一展」へ家族と一緒に行きました。守一氏は、亡くなるまでの30年間、豊島区千早の自宅から外へ出なかったそうですが、その間も、庭の草花、鳥、虫、猫といった生き物の絵などを描き続けたようです。私は、生命あるものに対する愛情を感じました。すこし抽象的な絵だけれど、ピカソよりもわかりやすい、そんな絵のように私は思います。色も美しいです。旧自宅には豊島区立熊谷守一美術館もあるようです。ぜひ行きたいです。

「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年、米国映画)観ました

 小学校の音楽会で「エーデルワイス」のリコーダー演奏を聴いたのをきっかけに、映画「サウンド・オブ・ミュージック」を観たくなり、つい先日(2007/11/18)観ました。「エーデルワイス」の歌、ありました!ドイツへの併合(1938年)の前夜、お父さん(トラップ大佐)がギターを片手に「祖国(オーストリア)よ永遠に」と歌う、あの歌です。逃亡直前のザルツブルクの音楽祭でもお父さんが哀愁を込めて歌います。いつ観ても素敵ですね。
 それにしても、「エーデルワイス」は小学校で教わるんですね。でも、その日本語訳には「祖国よ永遠に」という歌詞はありません。単に「エーデルワイス」というアルプスに咲く花を愛する歌となっているようです。少し残念な気持ちがするのですが、翻訳とはそういうものなのでしょうか。(ほかの日本語訳も存在するのかもしれませんが、知りません。)

「助産所が消えていく」(NHKおはよう日本首都圏)を見て

 改正医療法(2007年4月1日施行、猶予期間一年)により、分娩を扱う助産所は、産科・産婦人科の医師を嘱託医とし、かつ、産科・産婦人科および小児科のある医療機関との連携が必要となりました。今日の朝7時台の「おはよう日本 首都圏」では、医療機関と連携することが難しい助産所の現状を紹介していました。日本助産師会によると、現在でも嘱託医師、連携医療機関を確保できていない助産所は少なくないそうです。
 また、「お産サポートJAPAN」(NPO法人)のアンケート調査(33都道府県の90ヵ所から回収)によると、小児科・産科があり、24時間対応が可能な病院への嘱託が、9月の時点で「できていない」と回答した助産所は31ヵ所(約34%)だったと、日本経済新聞(2007年10月20日付)が報道しています。
 産科・産婦人科医師が減少し、産科・産婦人科を標榜する医療機関も減っていくなかで、助産所の閉鎖も相次ぐとしたら、この先、産科医療はどうなるのでしょう?もちろん、助産所の「安全」確保は必要ですし、改正医療法(および医療法施行規則)の言わんとすることは理解できるのですが…。助産師(助産所)と医師(診療所、病院)の連携がうまくいくよう、願っています。

「大ロボット博」と「ムンク展」を観ました

 昨日の「埼玉県民の日」に上野の国立科学博物館と西洋美術館へ行ってきました。まず国立科学博物館へ急ぎました。まだ午前10時頃でしたが「大ロボット博」の会場は大盛況でした。入るとすぐ、往年のロボットアニメのおもちゃ、そして「ガンプラ」が陳列されているではありませんか。しかも「ガンプラ」には値段まで書いてある!なんということでしょう。購買意欲をそそる展示になっております(展示場内で販売していました)。そして、さまざまなロボットの展示場へ。この展覧会の目玉は、ホンダのアシモのショウだと思います。アシモが走ったり、飲み物をテーブルまで運んだり、踊りを踊ったり、サッカーボールを蹴る様子を実際に観ることができます。次に常設展へ行きました。常設展のほうは内容も充実しており、「大ロボット博」よりも良かったです。
 その後、東京国立博物館の「大徳川展」を観るつもりでしたが、平日昼間にもかかわらず入場に「40分待ち」(!)という状態でしたので諦め、西洋美術館の「ムンク展」へ向かいました。ムンクは「不安」、「叫び」などの絵が有名だと思いますが、写実的な絵、神話を描いた絵などもあり、驚きました。行ってよかったです。