マンションの販売員に困っています

私の住んでいる川口市は空前のマンションラッシュで、周囲の鋳物工場跡地などにマンションがどんどん建設されています。駅前には30階前後の高層マンション、その周囲には13階までの中層マンションが多いように見受けられます。私は現在、マンションの訪問販売員に閉口しています。
「賃貸に入り続けて毎月10万円捨てるのと、マンションを買って2000万円の資産が残るのとどちらがよいですか」とか、「買わないとおっしゃる人が案外買ってくださるんです」とまくし立てる。
「興味がないので、もう来ないでください」と頼んでも、「また来ます。いつがお時間ありますか」と食い下がる。

新築マンションは3000〜5000万円もするけれど、30年後にはほとんどタダ同然になるのではないですか。修繕費も毎月かかります。それなのに、2000万円の資産が残るとはどういうことなのでしょうか。

阪神大震災で建てたばかりの新築住居をなくした友人は、家は全壊したのに高額の住宅ローンだけが残りました。かわいそうでどうしてよいかわかりませんでした。借金はしないに限ると私は信じています。即金で家が買える世の中になれば、私の考えも変わると思いますが…。

阪神大震災を忘れない

12年前の早朝、阪神大震災が起きました。当時私は、大阪府豊中市の二階建てのテラスハウスに住んでおり、非常に大きな揺れで目を覚ましました。豊中では震度五程度の揺れだったと思います。二階の本棚が倒れて本が散乱しただけでした。でも、こんなに大きな地震は初めてでした。
数時間後、テレビで、神戸や淡路島の惨状を知り、ショックを受けました。被災地では、高層のビルが倒壊し、高速道路が倒れ、多くの民家が全半壊し、火災も頻発していました。電気やガスが止まり、被災者の生活は困難を極めていました。そして六千人以上の人が亡くなりました。多くの尊い命が奪われた大震災の記憶を風化させてはならないと思います。そして、私たちは、大災害などでの不慮の死を念頭に置きながら、一日一日を大切に生きることが大切だと感じます。
亡くなられた人々のご冥福とご遺族の幸せをお祈りいたします。

「高円宮殿下メモリアル 第7回日本マスターズオーケストラキャンプ」

私は日本アマチュアオーケストラ連盟の主催の「高円宮殿下メモリアル 第7回日本マスターズオーケストラキャンプ」に参加しました。
・日時: 2007年1月6日〜8日
・場所: 第一生命ホール(晴海トリトン・スクエア)
・講師: 安永徹さん(ベルリンフィルハーモニー 第一コンサートマスター)、丸山勉さん (東京ホルンクァルテット)

今年は弦楽合奏の部とホルンの部があり、私は弦楽合奏の部にチェロで参加しました。
弦楽合奏の課題曲は三曲でした。
チャイコフスキー作曲: 弦楽六重奏曲 「フィレンツェの思い出」から第1楽章
・フランク・ブリッジ作曲: 「弦楽のための組曲」から第1楽章
・フランツ・リヒター作曲: 「弦楽のための交響曲

安永さんが名器ストラディバリウスで実演しながら、情熱的に指導して下さいました。
・今回の合宿で学んだこと
ビブラートのかけ方(指と肘、必要に応じて効果的に)、弓の速度や幅、表現の方法(フレーズの最後を大切に弾く、強調すべきところを強調する、パート内で違う弾き方をしても良い…など)、音程の取り方、「演奏者が楽器を弾いている」ということを聴いているお客さんが忘れてしまうような演奏(縦の線があっているとか、難しい曲なのにがんばって弾いている、などという感想をお客さんが感じない演奏)がベストであること、などを知り、驚きました。
最後の話は哲学的です。私の想像ですが(違うかもしれません)、楽器を弾いているのではなくて、「歌を歌う」あるいは「おしゃべりをしている」ような演奏を目指しておられるのだと思います。そのためには、どんなに難しい曲であっても完璧に弾けなくてはいけませんし、曲のフレーズに合った表情をつけなくてはなりません。私たちはアマチュアゆえ技術的には無理がありますが、表情・表現という面では改善の余地が大いにあると思いました。
世界の頂点を極めた安永さんのご指導は、感動の連続でした。安永さん、そしてスタッフの皆様、どうもありがとうございました。

代理出産について思うこと

 代理母が産んだ子どもの出生届受理をめぐってタレントの向井亜紀さん夫妻が裁判を起こしたこと、そして、閉経後の女性が娘のために代理出産したという衝撃的なニュースによって、現在、代理母の是非に関する議論が起きています。そして、病気によって子宮を失った場合など代理出産以外には実子を得る手段がない場合には、代理出産を認めるべきだろうという意見も多いようです。向井さんも病気によって子宮を失っていたそうです。また、諏訪の根津医師もそうした意見に賛成し、医師会で禁止されているにもかかわらず、代理出産を手がけています。閉経後の実母が娘のために代理出産したのは根津さんの病院でした。
 しかし、これまでの議論では、代理出産がいとも簡単にできるという印象を人々に与えているのではないかと危惧します。代理出産には、代理母卵子と依頼夫婦側の精子を人工授精させる場合や、依頼夫婦の受精卵を代理母の子宮に入れる方法などがありますが、成功率はそんなに高くないのです。不妊治療(人工授精、体外受精など)の成功率が低いことは知られていますが、代理出産も同様といえます。ホームページによると、向井さん夫婦は自分たちの受精卵を用いたそうですが、二度失敗を繰り返し、二人目の代理母によって代理出産がやっと成功したのだそうです(そのため多額の費用もかかったそうです)。
 こうしたことから、代理出産を引き受ける女性は、受精卵を着床させ出産を成功させるために行われる「治療」による肉体的な苦痛を強いられるだけではなく、「治療」による時間的そして経済的な痛手、そして「いつ成功するのか」という精神的不安を背負うことになりかねません。それは、不妊治療を受けている女性と同様の苦しみと言えるかもしれません。もちろん出産自体もリスクが伴います。そして、運良く出産できた場合には、子どもを依頼夫婦に引き渡さねばなりません。こうした事情から、代理母(および家族)と依頼夫婦との間に、子どもの引き渡し拒否や、何らかのわだかまりが生じる場合も少なくないようです。根津医師はその点を認め、問題が一番起きにくいのが実母による代理出産だと語っています。
 私は、代理出産の是非を論じる前に、代理出産の実情を人々に公表する必要があると感じています。もちろん、将来、医療が進歩して、代理出産が簡単に成功するようになったり、「人工子宮」ができれば問題がなくなるわけではないと思います。しかし、現時点では、代理出産はそんなに簡単に成功するものではないこと、そして代理母(および家族)に様々な苦痛を与える可能性が大きいことを知る必要があると思っています。

東日本幼児サッカー大会に行きました

 昨日(1/30)、東日本幼児サッカー大会の応援に埼玉県久喜市まで行ってきました。この大会に、子どもが所属している幼稚園のサッカークラブが出場したからです。
 南は神奈川、北は群馬、栃木、茨城まで、関東地方の幼児が集まり、予選リーグ、そして決勝リーグが行われました。あいにくの天気でした。非常に寒く、そして強風で砂が舞い上がり(芝生ではないので)、ボールも子どもも風で吹き飛ばされそうでした。サッカーって雨でも雪でも試合をする過酷なスポーツです。それはわかるのですが、幼児にこんな試練を与えなくても良いのでは?と複雑な思いがしました(参加させなければよいのですが)。
 幼児の中には、本当にまだ6歳以下なの?と思うほどの名選手がたくさんいました。驚きです。幼児にして、こんなに力の差があるものだろうかと思いました。そして、そういう子どもを観察してみると、父親がサッカーが上手だったり、サッカーマニアだったりする確率が高いことがわかりました。日頃の教育の成果が反映されているんでしょうね。
 試合の結果は16位(64チームくらい出場中)でした。去年は3位だったので、先生も子どもたちもがっかりしていました。あの寒さと強風がなければ、また別の展開があったのだろうと思います。
 それにしても、サッカーの試合でいつも思うのですが、親たちが応援で盛り上がってしまうのはなぜでしょうか。いつも違和感を覚えます。試合で一喜一憂するは疲れます。いっそのこと、コーチ以外は応援禁止にしてしまえば、安心して試合が見られるのですが(そういう大会もあったと思います)。テニスのように静かな試合がうらやましいです。昨日の大会では、温暖な地域に住む私たちは、寒さのあまり、応援の声も小さかったように思いますが…。

憲法24条を改正してはならない

 朝日新聞(2004.11.4.生活19面、12版N)の「憲法24条見直しNO!」という記事を読みました。自民党憲法改正プロジェクトチームの憲法改正についての「論点整理(案)」に、「憲法24条」の見直しが盛り込まれていることに、私は驚きと憤りを感じました。
 憲法24条には個人の尊厳と夫婦や家族における両性の平等が書かれています。戦前は女性は家長や家に従属するものとされていましたが、この憲法24条によって、夫婦や家族において女性は男性と同等の権利を有することになったのです。だから、24条は非常に大切な条文です。
 なぜ、いま、自民党憲法改正プロジェクトチームは、憲法24条改正にまで踏み込もうとしているのでしょうか。それは、「家族」の役割を強化するためです。「家族」の役割の強化とは何を意味するのでしょうか。それは、理想的には男女が共に「家族」の扶助義務を果たすことでしょうが、男女差別社会の日本においては、現実的には、女性に「家族」の扶助義務を果たさせることを意味します。子ども、障害者、高齢者の保育、教育、介護の役割を、女性に割り当てるのです。そして、結果的には、性別役割分担が強化されることになります。
 高齢社会のいま、「家族」だけでは老親の介護はできなくなっています。だからこそ、不十分とはいえ「介護保険制度」が始まったのです。また、近年は、離婚率も上がってきています。母子家庭や父子家庭が増え、さらに非婚や晩婚化が進んでいる現代、憲法改正で「家族」の役割を強化したとしても、それは無理な注文です。
 いったい、自民党プロジェクトチームが目指している、よい「家族」とはどんな「家族」なのでしょうか。「家族」がいない孤独な人、あるいは一人暮らしの人、母子家庭、父子家庭の人々は、「欠損家族」として差別されるのでしょうか。先ほど東京都では、残念なことに「国旗掲揚」・「国歌斉唱」が強制されましたが、それと同じように「家族」観までも強制されてはなりません。老いた父母を在宅介護した嫁(娘)がすばらしい嫁(娘)なのでしょうか。あるいは、障害のある子どもの養育・介護に尽くす母親が、すばらしい母親なのでしょうか。自民党のプロジェクトチームのメンバーは、どうも、そういう嫁(娘)、母親を良しとする「家族」観を持っているのではないか、と勘ぐってしまいます。「家族」観は強制されるものではありません。私は、「憲法24条」を改正してはならないと思います。

介護保険と「家族愛」について

 朝日新聞(2004年10月26日付、10面)の「私の視点」の欄に、ALS患者、山田悟の投稿文「介護保険 家族愛が生きる制度改正を」が掲載されました。ALSとは筋萎縮性側索硬化症のことで、次第に前身の筋肉が萎縮していく病気です。山田はこの病気を宣告されて7年目を迎える患者で、妻が介護を全面的に行っているそうです。とりわけ夜間の介護は大変といいます。2時間ごとに寝返りをさせたり、時折たんを取り除く必要もあるため、妻はぐっすり寝ることができません。しかし、妻は「2人の今の時間を大切にしたい」と主張し、献身的に介護しているそうです。その背景には、妻が、夜間に他人が自宅に入り込むことを嫌っている事情もあるそうです。
 山田が投稿文で主張しているのは、こうした「家族愛」に基づく介護に、介護保険が適用されないのはおかしい、ということです。現行の介護保険では、家族が直接介護すると、せっかく払い込んだ保険料は無駄になってしまうのです。制度を利用しようとすると、在宅介護を行う事業者のヘルパー等に介護してもらうことになります。しかし、事業者の「質」に問題がある場合があります。またそれ以上に、「愛」に基づく介護行為が、カネに基づく行為に置き換えられてしまう点が一番問題だと、山田は主張しています。
 私は、山田の主張は一理あると思います。家族が介護すると損をするというのは、公平性の観点から問題があります。さらに、山田の場合には、介護の「質」が命を左右するので、介護の「質」は極めて重要です。長年連れ添った妻だからこそ、ア・ウンの呼吸で介護できるという側面があると思います。だから、家族による介護か、ヘルパー等による介護か、選べるように介護保険制度を改正する必要があるだろうと、私も考えます。
 下夷(2004)によると、介護保険では介護の社会化とともに、介護サービスの促進という観点から、家族介護に対する現金給付は行われません。これは、介護保険の導入の段階から大きな議論となっていた点だといいます。そのかわり、2002年4月現在で、全国の市町村の61.9%で、一定の要件を満たした家族介護者に対して、慰労金が支給されているそうです。下夷も、現在の高齢者介護の多くは家族が担っており、介護保険のなかに家族介護への現金給付を制度化することは、理論的には必要だと述べています。そして、ドイツの介護保険では、家族介護への現金給付が行われているそうです。しかし、家族介護の規範が強固な現在の段階で現金給付を導入すると、介護の社会化は後退してゆき、むしろ家族介護を強化する危険もあると、下夷は述べています。(下夷美幸2004「家族と社会保障」、『家族革命』弘文堂、207〜213頁)
 私は、上記の山田の主張にも、下夷の議論にも全面的に賛成します。しかしながら、山田の「日本人が長らく育んできた、家族制度における家族の情愛を、切り捨てないでほしい」という投稿文の一文には疑問を持ちます。愛情を持って介護している、あるいは介護したいと望んでいる家族が存在することは否定しません。それは、素晴らしいことだとも思います。しかし、それは「家族」だけに限定されるのでしょうか?親友であったり、信頼を寄せる先輩や後輩であったり、近所の人々であっても理論的にはよいわけで、必ずしも「家族」に限定する必要はないと思います。例えば友達が、交代で介護する場合もあるでしょう。「家族」という資源は限られており、「家族」にこだわると、少数の人が介護の負担を背負うことになる危険があります。
 「家族介護」の現金給付を検討する場合には、「家族」か「家族」以外かで、線引きが行われてしまいます。「家族」以外の人が献身的に介護をする場合には、どうすればよいのでしょうか。彼ら/彼女らには、ヘルパーなどの資格が必要になるのでしょうか。「家族介護」を制度化する場合にも、検討すべき課題が山積しているのだと思います。